バナナムーンへお越しになられる方によく聞かれる質問なのですが、接客中にはいつも手短に答えがちなので、できるだけ丁寧にお話したいと思います。
1989年に、成瀬政博は家族と共に大阪から安曇野へ移り住みました。
移住して間もなく、その年に開館した"安曇野絵本館"という場所に出会い、その後、頻繁に出入りするようになります。
安曇野絵本館の館長さんとは1947年生まれの同い年ということもあり、二人は公私共にすぐに打ち解け、互いの夢や仕事などで行動を共にすることも多くなり、作品展なども行いました。
そして、本好きでもあった二人は、1992年に『BANANA MOON』という画集を、安曇野絵本館から発刊しました。
それから数年後のある日。ある取材で、安曇野絵本館へ新潮社の編集者が訪れます。
取材の後、「ぼくの友人で、谷内六郎さんのように『週刊新潮』の表紙絵を描く仕事がしたい。と言っている男がいるんです。」と言って、画集『BANANA MOON』を、その編集者に手渡してくれたそうです。
館長さんのはからいで、何気なく手渡された一冊の画集が、後に『週刊新潮』の表紙絵作家候補になるのですが、実はその頃、『週刊新潮』編集部では、次の表紙絵作家を探している時期だったらしいのです。
この出来事は、谷内六郎さんの表紙絵が1994年から2年間リバイバルされていた頃の話なんですが、昔から好きだった谷内六郎さんの絵を、あらためて眺めることで、「谷内さんみたいな仕事がしたい。」と、想いが再燃していたらしく、その頃亡くなったばかりの父の遺影に、毎朝、ある願掛けをしていました。
その願掛けというのは、
"『週刊新潮』の表紙絵を描く仕事が決まってありがとうございました。"
と、自身の想いを自己暗示にかけるかのように、過去完了形の手法で願っていたそうです。(その頃、候補に上がっていることは全く知らず、ただただ、純粋な想いでやっていたみたいです。嘘みたいな話なんですが、本当にやってました。笑 )
そして、その想い・行為が通じたのか(?!)、数年後のある日、『週刊新潮』編集部から連絡があり、憧れの『週刊新潮』の表紙絵作家となったのでした。
この一連の出来事が、自身の人生において大きな分岐点になったのはいうまでもなく、今でも連載を続けていけるほどのライフワークとの出会いでした。
その後、本人がよく云っていたことは、「夢は口に出して、人に話した方がいい。人に話せば、ひょんなことから、巡り巡ってどこかで想いが繋がることがある。アホか?と思われても、そうしたほうがいい。」と。そして、「願い事があれば、過去完了形で祈ってみるといい。毎日続けていると、勝手にその気になってくる。笑」と。
随分、長い説明になりましたが、2004年に自身が暮らす安曇野で『週刊新潮』の表紙絵をいつでも観ていただけるようにと開館した個人美術館の屋号には、これらの” 縁 ”を繋いでくれた安曇野絵本館と、この出来事に関わってくれた全ての人への感謝の意味を込めて、画集『BANANA MOON』から名付けたという訳です。
(『BANANA MOON 』という画集名は、画集の表紙に三日月とバナナを連想させる絵を使用しており、そのタイトルを妻の憲子が付けたそうです。) |